歴史・文化
2023年04月29日
慈覚大師ゆかりの一念峰へ
2023.4.28
以前から、気になっていた山があり、先週の遅山仙人と山仲間S氏との焼肉パーティーで話題になりました。
S氏も行ってみたいと思っていたそうです。今回、S氏とは同行が叶わなかった(理由は後述)ので単独で行ってきました。
朝、サバ缶とキャベツでカレー味のホットプレスサンドを作り、どん兵衛のきつねうどんミニと餞別でもらった中尾珈琲を持って行きました。
朝、8時前に自宅を出発し、給油してから向かったので、通勤ラッシュに引っかかってしまいました。
向かった先は、米沢市と高畠町の境にある一念峰(いちねんぼう)という山です。
山形市内から国道13号には乗らず、上山市内から柏木トンネル、高畠町二井宿を回って、米沢市に向かう県道1号に乗りました。
県道1号の長手トンネルの手前から左折します。分かりにくのですが、小さな案内板がありました。
谷の口集落から上りになり、上り切った所がY字路になっていて、一念峰への大きな案内板が立っていました。
ここから右に入ると一念峰です。ここを真っすぐ行くと広域農道のぶどうまつたけラインに出ます。
「慈覚大師ゆかりの一念峰」とあります。
今週の月曜、同じ慈覚大師が開山した山寺(宝珠山立石寺)にも行ってきたばかりです。山寺・薬師如来へ快癒祈願で紹介しています。
一週間で、慈覚大師が開山したという霊場を2か所行くことになりました。
9時過ぎに駐車場に到着しました。最初は止まっている車がありませんでしたが、後からご夫婦の車が来ました。
旦那様が私のリトルカブを見つけて、バイクの話題になりました。バイクについては詳しい方のようでした。ランドセルが流行りになっていることも知っていました。
単にツーリングで来たと思っていたようですが、前かごに載せていた革の登山靴を見つけて、山登りで来たことがわかったようです。
私は、ご夫婦が山登りで来たとばっかり思っていましたが、山菜取りだと言っていました。何が取れるのか尋ねると、行ってみないとわからないとのことでした。
奥様は、何度か登られているのか、この山のことを詳しくわかっていました。30分ぐらいで登れて、おもしろい岩がたくさんあるので、是非、登ってみてくださいと案内してくれました。
先に、ご夫婦が出発されました。
地図には一年峰と書いてありますが、案内板は全て一念峰と表示されています。慈覚大師が一年修業したというところから、別名で一年峰と呼ばれているようです。
歴史家・遅山仙人によると、慈覚大師が開山したといわれているところは、全国にたくさんあるとのこと。この一念峰も、その一つであろうというのが仙人の見解です。
一念峰は個人所有地なの自己責任でという注意喚起の看板が立っていました。登山道の管理は地元の人たちで行っているのでしょう。
注意喚起の看板の先には石灯籠があり、その先から左側の上の方に墓地があります。国土地理院の2万5千分の1の地図には、墓地の記号が示してあります。
山の縁に沿ってしばらく歩くと、先に会ったご夫婦が山の斜面で山菜取りをしていました。
斜面の植生と手に持っている感じから、ワラビかゼンマイかなと思いました。ご夫婦には、声をかけずに先に進みました。
上り始めると、また、石灯籠がありました。
そして、左側の階段を登ったところに一念峰本堂が建っていたようです。入口の案内板によると、昭和39年に雪で崩壊したとありました。戦前から利用されていなかったのでしょうか。
ここから、本格的な登りとなります。
つづく。
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2023年04月06日
越前大野の視察と仙人の入院
4月3日から5日まで、山形の政財界の隠れた大物のカバン持ちとして、青春18きっぷを利用した普通列車の旅に行ってきました。
3日と5日は山形、米原間の往復。中4日は、北陸本線と越美北線を利用して福井県大野市へ移動しました。
越前大野は山形城の城主だった松平直基(なおもと 家康の孫)が山形に入封される前の20年間過ごした場所です。
大野市では、寺町などの街並みや佇まい、たくさんの湧水と水路の整備などを見てきました。古い街並みと石垣で整備された水路が特徴的でした。
特に感じたのは町の中にコンビニがないこと。昔ながらの魚屋、肉屋、八百屋が残っていること。マンションなどの高層ビルがないこと。空き家が目立たないこと。
路線バスの運転手さんの話によると、夏は大勢の観光客で賑わうそうです。
越前大野から越美北線で一乗谷に移動し、信長に滅ぼされた朝倉氏の遺跡を見てきました。NHKのブラタモリでも紹介されました。
博物館学芸員の資格を持つ大物は「何が何でも、建物を復元するのが、史跡の復元ではない。遺構を上手に残すという方法がこれからの史跡の保存になるという見本だ。」と語っていました。
3日は米原への移動で御殿場線で遠回りをし、逆光ながらも富士山を見ることができました。
5日は3日で走らなかった東海道本線側から富士山を見ることができました。
3日間の全行程をすべて計画通りに進め、昨夜遅く帰宅しました。大物は帰宅後、報告書をまとめる作業に入り、私も一部、お手伝いさせていただくことになります。
今回の旅行中、4日の福井駅で山仲間S氏からLINEで連絡が入り、遅山仙人が仙台の専門病院に入院したとのことでした。
旅行前の1日に仙人に電話を入れたところ、私が旅行中に入院になりそうだと話していました。相変わらずの物臭で、手ぶらで入院できると思っていたようです。
入院案内に、寝間着や下着や洗面道具を持ち込むよう指示されているにもかかわらず、病院で買えるだろう、一週間ぐらいで帰れるだろうと高をくくっていました。
仙人との電話の最中、ネットで調べると、病院と言っても外来の診療所に毛をはやしたような病院で病床が11床しかなく、売店もないことと、2か月も激痛が取れていないから、2か月は入院が必要であろうと伝えると、慌てて持ち物を買いに行くと言っていました。
その際に、荷物が多くなるだろうから、山仲間S氏にお願いして、病院まで乗せてもらうように伝えました。その電話の後にS氏に電話をかけて、仙台までの見送りをお願いしたところでした。
果たして、仙人の痛みは取れるのか、専門病院で治療に専念するしかありません。
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2023年03月21日
青春18きっぷを使って会津若松へ
2023.3.20
この春、中学に上がる孫を連れて、会津若松に行きました。会津若松はリトルカブでは日帰り圏内ですが、4月初めに青春18きっぷを利用して福井に行く予定があり、2回分余るため、それを利用して孫の卒業旅行を行いました。
山形駅を6時30分に出発し、福島、郡山で乗り継いで10時31分に会津若松駅に到着しました。リトルカブなら、米沢、喜多方、会津若松で3時間強で行くことができますが、JRはコの字型の遠回りで4時間かかりました。
天候に恵まれ、快晴でした。磐越西線は磐梯山の近くを走り、飯豊連峰が真っ白に見えました。
会津若松駅に到着後、まちなか周遊バスのハイカラさんの出発までかなり間があったので、タクシーで飯盛山まで行きました。駅から千円ちょっとでした。
何十年ぶりかで飯盛山に来ました。仲見世は、シャッターが閉じている店が多かったです。孫と一緒に急な階段を一気に駆け上がりました。
白虎隊士十九士の墓の前で、孫より4、5歳年上の子供たちがなぜ、飯盛山で自害したのか、説明をしました。
飯盛山を下りる頃は、昼近くになっていたので、少し南に歩いたところの更科食堂に入りました。
会津若松名物のソースかつ丼をいただきました。950円でした。美味しかったので、孫も一人前をペロリと平らげました。甘タレのソースがとんかつによく合います。
飯盛山下というバス停まで戻り、12時20分発のハイカラさんで鶴ヶ城に行こうと待っていましたが、20分経っても駅からのバスが到着しませんでした。
たくさんの人が待っていましたが、ここから鶴ヶ城まではバスで40分かかるので、タクシーを呼んで、鶴ヶ城に向かいました。
鶴ヶ城の白壁は青い空に映えて、とてもきれいでしたが、改修工事中のため天守閣には入れませんでした。
4月28日にオープンするとのことで、5月8日から使える無料招待券をもらいました。リトルカブで行こうと思います。
鶴ヶ城ミュージアムショップの奥の続き櫓(やぐら)が部屋に仕切られていて、各部屋ごとに城の説明をスクリーンにきれいな背景に文字と音楽で表現していましたが、子供たちにはわかりにくい大人のための施設でした。
鶴ヶ城からは歩いて駅まで向かいました。途中、田中要次出演のテレビの旅番組で紹介されたおさすり地蔵に立ち寄りました。
自分の体の悪い部分とお地蔵様の同じところを触ると回復するという有難い地蔵様を擦ってきました。
さらに、もうちょっと寄り道して、昭和なつかし館で昭和レトロを楽しんできました。
孫はブリキのおもちゃに興味津々でした。
由美かおるのアース渦巻の看板など懐かしい物ばかりです。急な階段を上ると、私の子供のころにタイムスリップした感じでした。
さらに2,3軒おもしろい店を回り、駅に戻りました。駅でちょっとだけお土産を買い、16時20分の列車で帰宅の途に就きました。
郡山と福島で乗り継ぎ、途中、福島で40分の待ち合わせがあり、改札を出て、夕食を買い、入線していた米沢行きの列車に乗りました。
山形到着、21時14分で帰りは5時間でした。
一つだけ、奥羽本線と東北本線の違い。車内アナウンスに新幹線のような英語案内があるのが新幹線と並行している東北本線、無いのが新幹線が走っている奥羽本線です。奥羽本線は田舎だなと改めて感じました。
孫と結構歩きました。孫たちはコロナの影響からか、学校で遠足がなかったとのこと。それでも、通学で歩いているので、このぐらいはヘッチャラという感じでした。
天候にも恵まれ、寒くもなく、いい旅行でした。
himajintaro at 09:34|Permalink│Comments(0)
2022年11月28日
紅葉盛んな有備館へ
2022.11.11
今回のツーリングの目的地で、お笑い芸人狩野英孝さんのご実家である櫻田山神社を後にし、岩出山に戻ることにしました。
岩出山には、簡単に戻れました。櫻田山神社から県道を南下し、一迫を南北に横断して、一山超えると岩出山です。このルートは、9月15日の恐山の帰りに築館の国道4号から一迫に入り、岩出山に向かった時と同じコースです。
おおくぼのかりんとうを大人買いで紹介しています。
朝、コーヒータイムを取った有備館の駐車場に戻ったのは正午ちょっと前でした。
有備館の森公園で前の日に買っておいたフイン ズ PASTRY SHOP Fin'sのサンドイッチで昼食としました。
昼食後、有備館の庭を拝見しました。
有備館の紅葉はピークを過ぎていましたが、まだまだ、紅葉はきれいでした。
美味しそうな池の鯉たちは、口を開けて、盛んに餌をねだっていました。
鯉たちは、ずーと追いかけてきました。
池の周りをぐるっと一回りしました。恐山の帰りに立ち寄った毛越寺よりは、こちらの庭の方が好きです。
写真(上)では、よくわからないのですがサツキが咲いていました。花の色と葉の紅葉が似ているためにわかりにくいかもしれません。
また、アヤメかショウブかカキツバタか見分けがつきませんが、写真(上)のように咲いていました。
池の水面の映る紅葉はきれいです。
池の反対側に回っていくと結婚式の前撮りが始まっていました。池と紅葉をバックにいい絵が撮れたことでしょう。
3年前の2019.9.13に遅山仙人と初めて有備館を訪れました。その時、職員から紅葉の時期も良いですよと言われて、仙人と紅葉の時に来ようと約束していましたが、残念ながら今回は来ることができませんでした。
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2022年11月26日
細倉鉱山探検へ
2022.11.11
細倉マインパークに到着したのは午前9時15分でした。
開店15分前、スタッフの車らしき乗用車以外、私のリトルカブ1台だけでした。
細倉鉱山、名前は聞いたことがありましたが、訪れるのは初めてです。
鉛と亜鉛が主産の鉱山のようです。
マインというのは鉱山と言う意味のようです。秋田にもマインランド尾去沢という鉱山のテーマパークにあるようですが行ったことはありません。世界遺産になった石見銀山も行ったことがないのですが、佐渡金山には行ったことがあります。
坑内は気温が低いというので、ツーリングで厚着をした服装のまま入ることにしました。
お土産物売り場になっている建物の中ではなく、外の右側に入場券売り場があり、入場券を求めて、建物の裏側に回り、坑内探検を始めました。
まず、目についたのは、電動の機関車でした。坑内では排気ガスを伴うエンジン式の機関車は使えなかったからか、バッテリー駆動の古ぼけた機関車が展示されていました。
機関車の先に、採掘で使った道具類が展示されていました。
掘削にはダイナマイトなどの火薬を使っていたようで、発破のシーンのジオラマがありました。
坑内はきれいに整備されており、鉱山という荒々しさは少なく、閉所恐怖症でなければ、安心して見学できると思います。
この鉱山で採れた鉱物が展示されていました。
掘り進んだ場所が展示品の一つとなっていました。実際の鉱山の荒々しさを感じさせるところです。
掘削方法を紹介したパネルがありました。スーパーマリオのクッパが出てきそうなシーンを連想させます。
坑内の安全を祈願する神社がありました。出羽三山の羽黒山系ということに驚きました。鳥居の先から参道が砂利敷になっていました。
本来、参道は神様が通る道で、私たち人間は端を歩かなければならないと信心深い山仲間S氏が言っていたのを思い出しました。
わたくし的には、たくさんのお神酒が献酒されているのが気になりました。また、下の写真のように酒の貯蔵施設として使われているようでした。
広い空間に当時の写真やカンテラ代わりの照明器具が展示されていました。
ゆっくり、展示品を見ながら坑内探検を終えると、入り口の建物の中に戻ることになります。お土産物売り場になっていました。
午前10時過ぎには駐車場に戻りましたが、相変わらず、私のリトルカブ1台でした。
鉱山で働く人々とその家族で1万人も暮らしていた細倉鉱山は、輸入コスト競争に負けて、閉山されてしまいました。全国津々浦々にあった鉱山も同じ運命を辿ったのでしょう。
私の知る限りでは、白鷹山の北斜面の沢の左側に坑口があったことを記憶しています。しかし、現在は坑口は塞がって、どこにあったのかわからなくなりました。
白鷹町の北側の登山口、山辺町畑谷の嶽原(たけばら)集落に住んでいた私の母方の祖父から何を掘っていたのか聞いたことがありますが、今となっては、記憶を蘇らせることはできません。
ここから、本来の目的地に向かうことにしました。
himajintaro at 06:12|Permalink│Comments(4)