2021年10月13日
避けられない過疎化の波
2021.10.2
思い出多い等栄寺から、妻の実家の墓地に向いました。
主要地方道山形白鷹線の旧道(旧狐越街道)を走っていきました。
この道路は現在、山形市道になっています。元々は、山形と白鷹町を結ぶ狐越街道でした。街道といっても、人が歩ける幅の道だったのですが、等栄寺に眠る母方の親戚で山辺町畑谷の製材所の初代が、荷車が通れるようにするために、有志による寄付と労力奉仕により、道普請で道幅を広げたと聞いたことがあります。
現在はアスファルト舗装になっているものの、交通量が少なく、所々、苔生しています。
途中、栗の木があり、今年はタイミングが遅くなったので、ちょっとだけしか拾えませんでした。
この道は、15年ぐらい前までは水田に向かう道として利用されていました。道路の北部に水田が広がっていましたが、全て、耕作放棄地になってしまいました。
妻の実家でも、このエリアで水稲を栽培していました。稲刈り後は、杭に干して自然乾燥させていましたが、乾燥期間中に、稲束を杭の上下で交換する天地返しをする必要があり、大変な労力を必要としました。私も家族総出で、田植えと稲刈りの手伝いに行っていました。
省力化のために、知り合いからコンバインを借りて稲刈りし、稲籾を人工乾燥して玄米にしてもらうライスセンターに持ち込んでいました。しかし、コンバインが壊れてから稲作を一気にやめてしまいました。
妻の実家の集落(七ツ松)には地福寺という、あまり檀家を持っていないだろうと思われる有名な寺があります。
この寺は、NHK大河ドラマ「天地人」の主人公、米沢上杉家の家老・直江山城守兼続により、関ケ原の戦いの東軍であった最上家(山形城主)侵攻の途中に焼き討ちにされた寺です。
現在の住職は地域づくりのNPO活動で知り合いでした。
妻の実家の墓地は旧双葉小学校の東側、主要地方道山形白鷹線のそばにあります。いわゆる、地域が管理する昔からの墓地です。
ここには、妻の祖父母や父が眠っています。
詳しいデータはわかりませんが、七ツ松は人口の50%以上が65歳以上という限界集落なっているのかもしれません。
前述の地福寺の住職たちは、地元の過疎化が進まないように様々な活動を続けてきました。私も、グラウンドワークというまちづくり活動していたため、仲間と一緒に、この地域の活動に協力させていただきました。
しかし、どんな活動をしても、過疎化の波を避けることはできませんでした。双葉小学校が閉校してから、9年が経ちました。
最近の研究で、女性が田舎に住むことを嫌う最大の理由として、隣近所から干渉されることがあるという結果が発表されていました。
私の母は標高700mの田舎で生まれ育ちました。同じ地域の400~500mのあたりに複数縁談がありましたが、人間関係の煩わしさを避け、安寧を求めて平野部に下りてきました。
集落のみんなが等しく貧しく、村の掟を守り、相互扶助をしないと暮らしが成り立たない時代と異なり、一人一人が経済的に自立した現代では、他人からの干渉は僅かであっても受忍限度を軽く超えるのだと思います。
今後、社会がどう変化するのか分かりません。親類縁者の墓参りをしながら、見守っていくしかないのかもしれません。
妻の実家の墓地から、山仲間の眠る上山に向かいました。