2017年07月

2017年07月28日

広域農道と農免道路とは?

道路には、道路の管理者の違いによる道路があります。

例えば、国道ですが、数字が一桁と二桁と100番台の一部を国土交通省(旧建設省)が管理している道路と、俗にいう三桁国道と呼ばれている都道府県や政令指定都市が管理している国道があります。

さらに、都道府県が管理している都道府県道、市町村が管理している市町村道があります。

そして、道路を作る目的によって異なる道路があります。自動車専用道路や高速道路などは自動車(自動二輪では125cc以上)だけを走らせる目的や高速に移動させる目的で作られています。

今回の話題は、一般的に「農道」と言われている道路です。この「農道」は農業用の自動車が通るという目的により作られています。

田んぼや畑が広がる所では、必ず、無数の「農道」が走っています。そこは、農耕用のトラクターやトラック、スピードスプレーヤーなどの防除車両が走ります。「農道」の管理者は土地改良区(注1)と呼ばれる「公法人」や農業関係の団体であることがほとんどです。

このため、前述の国道、都道府県道、市町村道のような「公道」ではないため、道路交通法の適用を受けないので、運転免許証が必要ない場合があります。

この「農道」の中でも、グレードが高い「農道」が「広域農道」や「農免道路」です。どちらも、国(農林水産省)の補助金により作られた道路です。

まず最初に「広域農道」です。





国の補助制度により、農道を作るための事業名があります。「広域農道」の正式事業名は「広域営農団地農道整備事業」です。そして、ほかの「広域農道」と区別するため通過する地域の名称を頭に付けて、上の写真の場合は、「置賜東部地区広域営農団地農道整備事業」が、この道路建設のための正式事業名です。そして、「ぶどう・松茸ライン」という愛称を付けています。ブドウと松茸の産地の中を走るために、この愛称が付けられました、

「広域農道」は国から補助事業として認めてもらうために、広い範囲の農業地帯を通過し、農道として新たに建設する部分もあれば、一部、既存の都道府県道や市町村道の改修も含めて一本の「農道」として計画されます。このため、道路の総距離数は数十キロが普通です。また、道路の幅員(幅)は、都道府県道とほとんど同じレベルです。トンネルを掘る場合もあります。この道路を新たに建設する部分は都道府県の農林土木事務所などが設計発注します。

「広域農道」は新たに建設された部分は都道府県や市町村が管理するため、公道として扱われます。

次は「農免道路」です。





「農免(のうめん)道路(農道)」の正式名称は「農林漁業用揮発油税財源身替(みがわり)農道整備事業」という舌を噛みそうな、とんでもなく長い事業名です。「広域農道」の場合は正式名称から何となく事業の中身が推測できますが、こちらは意味が理解できないはずです。

農業や漁業用の車両がガソリンや軽油を使う場合、その燃料にかかっている税金を財源(補助金)として、農道を作る事業という意味なのです。なんか、分かりにくい事業です。

この道路は、「広域農道」よりも狭い範囲で、距離も十キロ前後が多く、交通量が少ないという前提で若干道路幅も狭く、新規に建設するために都道府県の農業土木事務所などが設計発注します。

完成すると市町村が管理するため公道になります。

このように、「農道」といえども、一般道となんら遜色のない「農道」は、時としてバイクのツーリングにはもってこいのコースになることがあります。


注1 「土地改良区」とは
農家によって構成されて団体で、農地での生産性を向上するため、農道の整備や田や畑の区画整理、水路の整備などを行います。法律上は「公法人」として、都道府県や市町村などの地方公共団体に準ずる団体として扱われます。このため、地方公共団体と同じような税制上の優遇措置があります。また、様々な事業を行うために各農家から賦課金という名称で所有する面積に応じた負担金を集めます。この賦課金は地方税と同じで、納めないと差し押さえなどの強制徴収が認められています。


himajintaro at 22:25|PermalinkComments(0)道路 

2017年07月22日

私の忘れられない日、平成20年4月28日

平成20年4月28日は、私にとって数少ない生涯忘れることができない日です。

この日は、この年の10月に開催予定されていた日韓国際バイカモサミットの初めての打ち合わせ日でした。夕方、打ち合わせ会場であった山形市緑町にある川魚料理料亭「あげつま」に三々五々、関係者が集まり始めたころ、料亭の主人から主催者団体である「山形五堰(やまがたごせき 注)の流れを考える会」事務局長の清水さんが行方不明になっていることと、朝日町にある最上川の通称「おしんの吊り橋」で清水さんのスクーターが見つかったという急報が伝えられました。

集まった関係者は大騒ぎになり、情報収集に奔走し、サミットの打ち合わせどころでなくなりました。翌日から、私も現地に原チャリで向かい、最上川の両岸の捜索に参加しました。春の雪解け水が大量に流れる最上川は流れも速く、捜索は難航し、家族や親族、関係者の必死の捜索もむなしく、発見に至る情報は見つけることができませんでした。

実質的な捜索は打ち切られましたが、清水さんの息子さんは本業の理容業の休日である月曜日に欠かさず捜索に出向いていました。

そんな矢先、バイカモサミットが開催される直前、息子さんの執念の捜索が実を結び、上郷ダム下流で、清水さんの両腕と頭部の遺骨が発見され、無事に法要が行われました。清水さんの法要には、大勢の人が集まり、会場に入れない人で溢れ、別の場所でのモニター画面での法要になりました。生前の清水さんの人柄が偲ばれました。

そして、人一倍、サミットの開催を望み、サミットの事務局長を務めるはずだった清水さんが天国で見守ってくれている中、日韓国際バイカモサミットは成功裏のうちに終わりました。サミットのメインタイトル「『堰』の流れは人の心をつなぎます」は清水さんの遺言になりました。サミットは清水さんの言葉どおり「人の心」をつないだのでした。







清水さんが亡くなったことで、サミットでは急遽、「山形五堰清水基金」を立ち上げ、たくさんの寄付をいただき、山形市コミュニティファンドに基金を設立しました。農業用水路やその周辺の環境整備活動を実践する団体への支援基金になっています。

そして、私は毎年、清水さんの命日である4月28日前後に原付バイクで「おしんの吊り橋」を訪れ、最上川に手を合わせています。















「おしんの吊り橋」はNHK連続テレビ小説「おしん」でおしん役の音羽信子が生まれ故郷の川を渡る橋として撮影された場所です。橋は板張りになっていますが、最近、劣化が激しく通行止めになっています。「おしん」では銀山温泉が有名になり、外国人観光客も大勢訪れるようになりましたが、この「おしんの吊り橋」は日の目を見ることがなく、残念に思います。



注 山形五堰とは
山形市の市街地は、馬見ヶ崎川(まみがさきかわ)の扇状地に作られた町で、その馬見ヶ崎川の水を水源として、山形市市街地を東西に無数に走る農業用水路が形作られました。大きな堰として「双月堰」「宮町堰」「八ケ郷(はっかご)堰」「御殿(ごてん)堰」「笹堰」の五つの堰を総称して「山形五堰」と呼びます。県庁所在地の中心部を流れる農業用水路に、きれいな水質を好むバイカモが根を下ろしていることは全国的にも珍しいことです。

「三島バイカモ」で有名な三島市で環境保全活動を続けている「特定非営利活動法人(NPO法)グラウンドワーク三島」と韓国江華島でバイカモの保全活動を行っている「韓国ナショナルトラスト江華島梅花藻委員会」と「山形五堰の流れを考える会」が集まって、日ごろの活動を披露し、意見交換や情報交換により、より良い活動を目指すために平成20年10月3日と4日の両日、山形市を会場にして「日韓国際バイカモサミット」が行われました。












2017年07月15日

山辺町玉虫ラベンダー園が見頃です。

山辺町玉虫ラベンダー園が見頃をむかえています。ここは、山辺町(やまのべまち)玉虫沼から作谷沢・簗沢(さくやざわ やなざわ)に伸びる広域農道から、ちょっとだけ南に入った所にあります。



いつものように、信号のない裏道をクネクネと走り、山形市と山辺町の境である下原を県道49号線沿いに上っていきます。



ここは、県道を境にして左が山形市、右が山辺町になっています。この下原を過ぎると道は急に上りになっていきます。





県道はヘアピンカーブの連続ですが、途中、山形市内が一望できる見晴らし良い場所が何か所かあります。この県道は、山形市滝ノ平地区を通って山辺町作谷沢地区に伸びる道路ですが、地滑り地帯を走るために毎年のように土砂崩れで道路が寸断されていました。このため、大規模な改修工事がなされて、最近では不通になることは少なくなりました。



県道のヘアピンカーブが終わって、サイカチという集落から右に入ります。ここには、玉虫沼と山形ゴルフ倶楽部の案内標識が立っています。
4サイクルの原付バイクでは、とても一気には登れない、スロースピードで道路斜面を登ることになりますが、荷物を満載したダンプカーには容易に追いつくことができます。



玉虫沼が見えたら、すぐに広域道路へ左折します。この交差点に「ラベンダー園」の登り旗が何本か立っています。道路沿いにしばらく走ると、また、登り旗が見えますので、そこを左折すると駐車場になっています。休日は誘導員が立っています。





このラベンダー園は「玉虫沼農村公園かおりの広場」が正式名称のはずです。広域農道ができた時に山辺町役場が山形市滝ノ平地区であるこの場所をラベンダー園として開設したものです。行政界としては山形市になります。ここは、山形県内でも最大級の造園会社・内外緑化株式会社が指定管理を受けて管理運営をしています。





私がラベンダー園を訪れた時は、園内には100人以上のお客さんが訪れていました。園内では、ラベンダーをバックに写真を撮る家族連れや木陰で食事を取る人、遊具で遊びまわる子供たちがたくさんいました。

ラベンダーの摘み取りやハスカップの摘み取りが有料で出来るほか、ラベンダーを使ったポプリ作りや石鹸作りなど体験できるコーナーもあります。また、レストハウスではラベンダーの香りのするソフトクリーム🍦も販売しています。昨年は山辺町名物の「酢だまり醤油」(注1)のソフトクリームもありましたが今年は売っていませんでした。

富良野のように広大なラベンダー畑ではありませんが、ちょっぴり、富良野に行った気分になれる場所です。

注1 山辺町では、かき氷に酢と醤油を合わせたものをかけて食べるのが名物となっています。「だまり」とは醤油のことです。

2017年07月14日

NHKこころ旅「長倉の大杉」、肘折温泉編

「長倉の大杉」を見た後、久しぶりに肘折温泉(ひじおりおんせん)のお湯に入ることにしました。来た道を少しだけ戻り、近道をかけるつもりでしたが、地図上の「今神温泉(いまがみおんせん)」が気になり、その正体を突き止めるべく、少しだけ遠回りのルートを取りました。









「今神温泉」は、こころ旅で放映された長倉への分岐点から右を登っていくと山の中に温泉があるはずなのですが、Googleマップには、もっと下の違う所にも表示されています。今神温泉の支店でもできたのかと調べてみたくなりました。地図で表示されている場所に行くと



民家に看板が掲げてあり、「今神温泉」の所有者の名前が書いてありました。この家が所有者の家なのかと思いながらカーブを回り切りましたが、どうも人が住んでいる気配がありません。「今神温泉」へのルートは通行止めになっているので、所有者が「今神温泉」に行っているのか疑問に思いながらバイクのアクセルをふかし通り過ぎました。どうも、この看板がGoogleマップに「今神温泉」表示させているようです。

ここから、県道57号線をひたすら走らせます。途中、県道331号線への分岐点から道幅が半分以下になります。所々、カーブが連続し、前を走っていた車のスピードが急に遅くなり、リトルカブに負けそうになります。しばらく、山道を走り、カーブがなくなると広い道路に戻り、肘折温泉へのアプローチに変わります。






時刻は11時をちょっと過ぎたところでしたが、湯に入る前に食事をしようということで、温泉入り口の「そば処寿屋」で昼食を取りました。








早い時間にもかかわらず、店の中はお客さんで一杯でした。確か500円台だった盛りそばの大盛りを注文しました。見た目と食感で二八そば(つなぎ二割、そば粉八割)と見ました。ただ、非常にそばの香がして美味しく感じました。麺の中に黒い粒々を見ることができたので玄そば粉(そばの実の一番外側を挽いた粉)を使っているので、風味が良かったのだと思われます。つなぎと玄そば粉を使っていることにより、比較的低料金になっているのだと思います。

山形県内、特に内陸部は手打ちそばを出す店が無数にあり、県外からもたくさんの方が山形のそばを食べにいらっしゃいます。最近は、そばの実の中心に近い部分を使った「さらしなそば」(そば粉10割)を食べることが多くなっています。細くて柔らかく、上品な感じはしますが、そばの風味はあっさりとしたものになります。

山形でも「さらしなそば」系のそば店が増えています。価格はどうしても高くなってしまいます。しばらく、玄そば系のそばを食べていなかったので、今回、肘折温泉で食べて、そば本来の風味を思い出しました。玄そば系の店を探しにツーリングするのも良いと思います。

そばで満腹になったところで、肘折温泉の共同浴場「上ノ湯(かみのゆ)」に入りました。





「上ノ湯」は思い出ある共同浴場です。

ずいぶん、昔のことになります。職場の山仲間とともに月山登山をした時のことです。山形市内からの直通バスで月山(がっさん)の南側登山口・志津まで行き、リフトに乗って、牛首、月山山頂へ向かいました。山頂で昼食の後、東側の立谷沢川の源流を下り、念仏ケ原という湿原まで登り、湿原の最東部にある山小屋に泊まりました。

ここまでの行程で同行者一人の体力が急速に落ちて、山小屋で疲れ切ってしまいました。翌朝も彼の体力は十分には戻らず、肘折温泉までのコースはなだらかな下りであるということで、彼の荷物は私が背負いました。二人分の荷物を背負い、いつ着くのかわからないダラダラと長い山道を必死の思いで降りてゆきました。

朝6時に出発して、肘折温泉に着いたのは昼頃でした。6時間の下り道でたっぷり汗をかき、体にまとわりついた、その汗を全部落とすために「上ノ湯」に入ったのです。

肘折温泉からは新庄経由で山形市に行くバスに乗り帰宅しました。志津まで行くバスも肘折温泉から山形市に行くバスもマイカーに客を奪われて、廃止になってしまいました。狭い肘折温泉の中を大型バスが走るというので有名になったことがあります。特に、ある場所が有名でしたが、後に写真で紹介します。

遅山仙人がどうしても肘折の豆腐が食べたいと言い出したので、上ノとうふ屋で豆腐一丁(300円)を買い求めました。





肘折温泉は昔から最上(もがみ)の奥座敷と言われ、農家が秋の収穫後、一年の体の疲れを癒すために自炊をしながら何泊も湯治をしたことで有名です。このため、上ノとうふ屋などの食料品を扱う店が旅館の合間に点在していました。最近は、連泊する湯治客がめっきり減ったそうです。

一丁300円の豆腐はとても大きく、店の人から包丁で半分に切ってもらいました。そして、遅山仙人と仲良く半分こにしました。遅山仙人が座って食べている場所こそ、大型バスが旅館や店の軒先をギリギリで走ったクランクがある有名な場所なのです。上のGoogleマップの温泉街の中で「旧郵便局」のところがクランクの場所です。今は大型バスは走らなくなったので、運転手さんの絶妙なハンドルさばきを見ることができなくなってしまいました。

その他にも、肘折温泉は狭い場所に旅館がひしめき合って建っているので道が狭く、大型バスの運転手さんはかなり苦労していたのですが、旅館に泊まっていたお客さんがバスに乗って帰ると旅館の女将さんや従業員さん、それに泊まっているお客さんたちが旅館の玄関前や2階の部屋から手を振って見送りをしたのです。昔から肘折温泉では帰る時も旅館の従業員や宿泊者たちからの「おもてなし」受けていました。今では、なかなか見かけられないコミュニケーションがあったのです。















肘折温泉は日曜というのに静かでした。そば屋に人はいましたが、温泉街の中心部では、あまり人は見かけることができません。温泉の北側には新しくできた大きな共同浴場があり、食堂や休憩室があります。大きな駐車場があり、たくさんの車が止まっていました。まるで、中心市街地が過疎化して、郊外にできた大型店舗にマイカーで人が集まるような光景を見ているようです。

気軽に温泉に入れる小奇麗な施設ができることは、利用者にとって便利なことですが、昔からの温泉旅館には罪作りな施設のような気がしてなりません。こういう施設は、往々にして、行政が作ることが多いのですが、行政サービスと地域活性化が競合して、逆に地域をダメにしてしまいます。

遅山仙人が「2~3人しか入れない小さな共同浴場があるはずだ。」と言って探し回りました。



ありました。しかし、上ノ湯と違って管理人はいなく、旅館から鍵を借りて入る共同浴場のようでした。

肘折温泉に通じる国道458号線は「酷道(こくどう)」と呼ばれ、肘折温泉から南下すると葉山の西斜面を登り、寒河江市幸生(さがえし さじゅう)を経て、国道112号線に出ます。峠は「十部一峠(じゅうぶいちとうげ)」と呼ばれ、ここから葉山の南斜面へ林道が伸びており、林道の終点から、葉山の登山道になります。林道の終点から1時間半程度で葉山山頂と北側の奥の院に着くことができます。

「酷道」と呼ばれる所以は、国道なのに砂利道で所々激しい凹凸があり、カーブの連続で林道よりも酷い道であるところから、そう呼ばれています。毎年降る大雨で、毎年災害復旧工事が行われて、ここ何年も開通した試しがありません。特に、肘折から「十部一峠」までは年中不通の状態です。

私の記憶では、20年ぐらい前までは、不通になって年中通行止めになったことがなかったと思います。最近の天候不順は、異常とも思える雨の量です。全国各地で土砂災害が毎年起きて、たくさんの方が犠牲になられています。この肘折温泉も大きな土砂災害に見舞われ、長い間、国道458号線から温泉街に入れない状況が続きました。そこで、下の写真のような「人工地盤」と言われる空中を走る道路を作りました。



肘折温泉から台地を駆け下りて、元来た道を戻りました。
遅山仙人は「昔は、この長い台地を歩いて肘折温泉まで湯治に行ったのだろうか?きっと、道中、大変な思いをして肘折温泉まで行ったのであろう。今度、自炊をして肘折温泉に泊まってみたい。」と感慨深げに話していました。

『NHKこころ旅で紹介された「長倉の大杉」に行ってきました。』はこれで終わりです。

2017年07月09日

NHKこころ旅「長倉の大杉」、「とうちゃこ」編

火野正平さんが慌てて喜んだ分岐点から300m行くと数軒の集落・長倉に「とうちゃこ」します。







やはり、テレビの影響ですね。先客がいらっしゃいました。仙台市や秋田県湯沢市などから次々とおいでになりました。ただ、私たちがいる間は、若い人は来ませんでしたね。



神社への登り口に由来の書いてある看板がありました。その昔、出羽三山の一つ「月山」への参拝ルートとして栄えたとありました。樹齢1200年ということで、どんな大きさの木なのか楽しみにして、神社への石段を登っていきました。



石段を上り詰めると





赤い鳥居と今熊野神社の社殿が見えました。そして、番組の通り振り返ると



半端でなく太くて高い杉の木がそびえ立っていました。

日本の杉の原点は屋久島杉と言われています。屋久島から日本海周りと太平洋周りの2つのルートで遺伝子が北上していったと思われます。この巨木は日本海側を北上した屋久島杉の子孫かもしれませんね。

山形県内にも杉の巨木はたくさんあったと思われますが、これぐらい大きい杉は初めて見ました。遅山仙人は「どうして、(自分は)今まで知らなかったのだろう。どうして、今まで(地元は)PRしていなかったのだろう。こんなに良いものがあったのに...?」と、いつもの、社会科教師としての性が疼き出し始めました。

何はともあれ、ここまで、来た甲斐がありました。

ここから、肘折温泉(ひじおりおんせん)に向かい、お湯に浸かることにしました。