観光
2023年11月04日
石ノ森章太郎の生家へ
2023.10.31
若草稲荷神社で御刻印デビューした後、来た道を戻り、次の目的地である栗原市の光明寺に向かう途中、石ノ森章太郎ふるさと記念館に立ち寄りました。
記念館内部は2つの展示室に分かれていました。最初に、左側の特別展に入りました。
特別展は頭文字(イニシャル)Dのしげの秀一でした。藤原とうふ店というロゴの入ったスプリンタートレノAE86で豆腐屋の息子が峠を攻めるコミックです。
トレノは、その後、モデルチェンジでボディも丸くなり、エンジンも同じ1.6リットルDOHCでありながら、4E-GEUから2T-GEUに変わったと思います。
貧乏学生だった私にとっては、羨望のスポーツカーでした。
同期には、三菱ギャランGTO、FTO、日産スカイラインGT、トヨタセリカ1600GT、マツダコスモAPなどを乗り回すボンボンがたくさんいました。
写真が撮れるのはここまででした。
懐かしいイニシャルDとイニシャルDの続編の原画が展示されていました。
もう一つの展示室は常設展で石ノ森章太郎の生い立ちから亡くなるまでの作品や親交のあった多くのアニメ作家との関係がわかる資料がたくさんありました。
赤塚不二夫も住んでいたトキワ荘は、あまりにも有名です。
石ノ森は本名ではなく、この記念館と近くにある生家の地名から取り、本名は小野寺でした。
記念館のすぐ近くの生家も見学しました。
記念館の入場券で見ることができるとホームページに載っていましたが、入場券は不要でした。
中には案内のオバちゃんがいて、簡単に説明してくれました。
その後、私がいろいろ質問をするので、その都度、答えてくれました。
下の仮面ライダーなどのフィギアはファンからの贈り物だそうです。
入口が土間になっているので商売をしていたのか尋ねると、章太郎の祖母と母は塩を売っていたとのこと。
父は公務員で章太郎は裕福な家庭に育ったとのこと。
石巻がマンガの町として有名になっていることを話すと、石巻市が地域おこしで故郷の近い章太郎に相談したことから、石ノ森萬画館を作ることになったが、その事を知った登米市も章太郎に相談し、記念館を建てることになったとのこと。
どちらも同じ頃に完成したものの、章太郎は完成を待たず他界してしまったようです。
石巻はマンガ、登米は資料を展示するという棲み分けをしているそうです。
2階には、章太郎が勉強した机と椅子、ナショナルのステレオのセットが置いてありました。
このタイプのステレオは見たことがります。本体の上の蓋を開けるとレコードプレーヤーになっているはずです。
オバちゃんの話よると、章太郎の家族は近くに引っ越したものの、家財を少し残していったそうです。
章太郎がサイボーグ009などの当時にしてはハイカラな作品を残せたのは、才能を見出した出版社が世界旅行に行かせてくれたからだと、記念館では説明の受けることができない話を多数語ってくれました。
オバちゃんに礼を言い、生家を離れました。
記念館近くのスタンドでガソリンを詰めようとすると、客のオジさんから記念館にいたねと声をかけられました。
オジさんと店員2人と、暫し、カブ談議に花を咲かせました。
店員によると、そのオジさんもカブ乗りで、たくさん、カブを持っているとのこと。
オジさんから部品はバイク屋から買うのかと尋ねられたので、ネットでしか買わないと答えると、オジさんはバイク屋からしか買えないと言っていました。
御刻印をもらいに若草稲荷神社に行ってきたと言うと、最近もテレビで取り上げられたと有名な神社のようでした。
これから、伊豆沼の北側にある光明寺で御刻印をもらい、築館、一迫、岩出山、鍋越経由で山形まで帰ると言うと、帰れないだろうとオジさんが言いました。
多分、カブで長距離を走った経験が無いのか、冗談なのか、十分帰れると笑って返しました。
山形も登米も訛りが似ているので、話が見えると、みんな喜んでいました。
カブ談議の3人に別れを告げ、ガソリンスタンドから光明寺に向かいました。
つづく
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2023年10月28日
院内銀山へ
2023.10.19
院内銀山異人館を後に、国道108号に入り、院内銀山跡を目指しました。
108号は、昨年の7月29日、3速リトルカブをボアアップして初めてのツーリングで、遅山仙人と鳥海山の北側の由利高原に向かう時に走りました。
院内銀山異人館でもらった案内図を参考に国道108号を走り、銀山入口に着きました。
左折してすぐの所に、院内銀山史跡案内板が設置されていました。
ここから、2万人以上住んでいたという院内の銀座通りが始まります。
2万人もの人々が暮らしているために、銀山への生活物資の搬入は必須です。
製錬された銀の搬出の監視はもちろんのこと、搬入される生活用品にも重さに応じて税をかけたというのです。
その役割を果たしたのが番所でした。
ドイツから招聘した鉱山技術者がここに住んでいました。その建物が洋館だったようです。
共同墓地が何か所にもあったようです。坑内の粉塵により若くして亡くなった坑夫たちの墓もあるのでしょうか。
銀座通りの突き当りに山神様である金山神社に着きました。スクールバスと乗用車2台が停まっていました。
参道を登っていくと、声がしました。
仙人が面白い狛犬だから撮れというので撮りました。獅子のような感じもしました。
声の主は、院内銀山異人館に社会科見学に来ていた小学生たちでした。見学を終えて、階段を降りていきました。
仙人は神社よりも、説明員のことが気になり、素性を尋ねたようです。行政OBで、今も大学で勉強している方のようでした。
銀山ではありますが、金も産出されたというのです。そのためかわかりませんが、金山神社となっていました。
11ヵ寺もあったという寺院は亡くなった人々の霊を慰め、金山神社は山神様を慰める役割を果たしていたのでしょうか。
昨年の11月11日に細倉マインパークに行った時に、坑内に山神様の分社があったことを思い出しました。
金山神社の登り口に天保年間の銀山の地図がありました。
原版は国立資料館に保存されている絵図です。家一軒一軒の世帯主の名前が書かれています。
現代版はカラー化したものです。
ここで、驚くべき事実が判明しました。
仙人は、この銀山に2万人も住み、大きな町を形作っていた事実を知りませんでした。
院内銀山異人館で見たビデオの内容が全く頭の中に入っていませんでした。
そればかりか、女性係員から御幸坑までしか車で行けないと言われたことも、全く聞いていなかったのです。
仙人を問い詰めました。
すると、「興味のないものは頭に入ってこない。」と言うのです。
ビデオを見始めた時に違和感を覚えていました。
ビデオの解説の腰を折るような言葉を発し、ビデオを注視しようとしないので、注意したのです。
仙人は、時々、話の腰を折り、別の話題に切り替えようとすることがあります。
これは、自分には興味のない話は頭に入らないので、話の腰を折るということだったのです。
仙人は歴史的事実よりも人物論が好きです。
このため、院内銀山異人館では、江戸時代の医師が残したカルテについては、興味深く見ていました。
頭脳明晰、高学歴の仙人とは長い付き合いですが、改めて、仙人の脳の新たな個性を発見しました。
女性係員が言った御幸坑の駐車場には、先程のスクールバスと乗用車2台が停めてありました。
小学生たちが説明を受けていました。
付添の先生と思われる方から、山形(市)からバイクで来たのですかと驚かれました。
大型バイクならまだしも、スーパーカブで、ここまで来るとは想像できなかったのでしょう。
明治天皇が東北巡幸のときに、この坑口に立ち寄ったことから御幸坑と呼ばれているようです。坑口は閉じられていて中に入ることはできませんでした。
尾花沢市にある延沢銀山は坑内を見ることができますが、関係資料を展示している博物館的施設はありません。
それに対して、院内銀山は坑内を見ることはできませんが、その様子を院内銀山異人館の展示資料で垣間見ることができます。
対象的な2つの銀山ですが、その違いを仙人の頭の中で整理できたのか、わかりません。
銀山から帰っていった小学生を追いかけるようにして、私達も国道108号を国道13号に向かって走り出しました。
つづく
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2023年10月27日
83歳の友人の推薦で院内へ
2023.10.19
前日、83歳になる友人から秋田県湯沢市にある院内銀山を推薦されました。
本当は、福島市飯坂温泉にある豪農の旧堀切邸か宮城県岩沼市の竹駒神社へ行こうと考えていました。
友人からの推薦は院内銀山と横手市の増田の古い町並みでしたが、夜明けが遅く、日没の早い今の時期では遅山仙人とのツーリングでは増田まで足を伸ばすのは断念しました。
仙人の隠れ家に向かう途中、朝焼けでした。後半天気が崩れる可能性があります。
仙人の隠れ家を午前6時に出発し、山形空港の西側を北上し、東根市長瀞、村山市名取、最上川隼橋を渡り、大石田町新山寺、蕎麦の品種で有名な来迎寺で国道347号に入り、尾花沢市で国道13号に合流し、県境を目指しました。
舟形町の先から、放射冷却による雲海の中に入ってしまいました。
湿度が高く、ヘルメットのシェードが水浸しになって、走るのが不都合になるほどでした。
県境の雄勝トンネルに着いたのは8時40分でした。
最初の目的地である院内銀山異人館の開館が9時なので、仙人の隠れ家から3時間という見積もりを立てて、出発時間を決めました。
開館5分前の8時55分には到着しました。院内銀山異人館はJR院内駅に併設されていました。
開館時間とともに入場料320円を払い入館しました。
明治時代にドイツから招聘した鉱山技術者が住んでいた鉱山入口の住居の建物を模して作られたので、異人館と名前が付いているそうです。
1階が受付で2階が院内銀山の資料が展示されていました。
係の女性から、「(1階に)院内銀山のビデオがあるので見ますか。これから小学生が来るけど、ビデオは見ないです。」と誘いを受けたので、見ることにしました。
小学生が2階へ上がってからのビデオ上映になりました。
院内銀山の歴史が上手くまとめられていました。
ビデオ上映の後、2階に上がっていきました。2階は撮影禁止だったので、写真は撮ってきませんでした。
2階では、学校側が準備した説明員が子どもたち相手に展示資料の解説をしていました。
説明員が小学生相手に「恋愛したことのある人?」と聞いていました。
最初は、質問の意味がわかりませんでした。
ビデオの中にもありましたが、院内銀山には2万人以上の人々が暮らし、鉱山内の粉塵による病気で30歳ぐらいで多くの若者が命を落としたといいます。
このため、銀山には寺院が11ヵ寺もあったそうです。
江戸時代の医者のカルテが残っていました。
毎年銀生産量日本一を誇っていた院内銀山も昭和29年に閉山し、350年にも及ぶ歴史にピリオド打つ日が来ることになりました。
小学生が帰った後、展示資料をゆっくり見て回りました。
1階の係員に銀山跡に行くと言うと、御幸抗までしか、車で行けないと教えてくれました。
同じ建物の北側にある院内駅を覗いてから鉱山跡に向かいました。
つづく
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2023年10月26日
狐越街道から延沢銀山、院内銀山へ
2023.10.18
寒河江市慈恩寺八千代公園でのリベンジ宴会の翌日、83歳の友人から電話が入りました。
自称「街道旅人」とする友人は、乗り鉄で、80を過ぎても青春18きっぷで九州まで行ってしまう強者です。
その友人が、自身の研究テーマである街道のうち、狐越街道の資料がまとまったのでプレゼントしたいというものでした。
早速、午後からリトルカブでご自宅に伺いました。
狐越街道は、山形市から白鷹山の北の麓を通り、白鷹町に抜ける街道です。
友人の資料はA4で14ページ、A3の地図が1ページでした。
私の母の実家は、白鷹山の北の麓、白鷹町の登山口、山辺町畑谷の嶽原(たけばら)にありました。
狐越街道に縁のある私へのプレゼントでした。
友人から、もう一つプレゼントがありました。
遅山仙人と延沢銀山(銀山温泉)に行ったことを話したところ、友人のお庭だった延沢銀山の資料を見せてもらいました。
友人の父親の実家に残っていた延沢銀山に関する古文書を尾花沢市役所に寄贈したところ、尾花沢市が延沢銀山に関する資料にまとめたとのこと。
同時に銀鉱石も見せてもらいました。
藩の厳しい監視をくぐり抜けて、延沢銀山から沢山の銀が背負われて、方方に散らばったとのこと。
一つは、河北町谷地から、特産の紅花にまぎれて、船で最上川を下るもの、あるものは、新庄市の本合海から最上川を下るもの、そして、あるものは奥羽山脈を越えて仙台に向かうもの。
7つか8つのルートがあったそうです。
羽州街道を研究している友人から秋田県の院内銀山を強く推薦されました。
実は、この翌日、仙人と福島市にツーリングに行く予定をしていたのです。ガソリンは、上山の24時間営業のスタンドで詰める段取りでした。
急遽、友人宅から仙人に電話をして、行き先を秋田県湯沢市の院内に変更し、今日のうちにガソリンを詰めておくように伝えました。
そして、もう一つ。
友人は、今年の夏、青春18きっぷで広島行きを断念しましたが、来春、リベンジするとのことでした。夏は外国人が多く、3、4月は外国人が少ないタイミングを狙うとのこと。
私は4月に奈良に行ってみたいと言うと、近鉄のフリーきっぷを使うと便利だとアドバイスをいただきました。
また、私への推薦ルートとして、飯田線を使った一泊二日のコースです。外国人も多く、18きっぷを使う人が感動するコースとのことでした。
友人に礼を伝え、友人宅を離れ、スタンドに立ち寄り、帰宅後、明日の院内行きの準備を始めました。
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2023年10月07日
義経ゆかりの地へ
2023.9.26
遅山仙人リクエストの瑠璃光山 医王寺を後にし、来た道の福島交通飯坂線沿いの県道を戻りました。
前回、8月20日に飯坂温泉の食堂で朝食を取った時に、仙人が飯坂温泉駅を見たいと言っていたことを思い出して、立ち寄ることにしました。
今回は、地図は添付しません。色の着いた地名をクリックすると別ページでグーグルマップが展開しますので、ご参照ください。
駐輪場は駅の南側にあります。
駅の1階フロアーにはコンビニと農産物の産直がありました。
ホームは階下にありましたが、仙人は1階を見ただけで十分でした。
満足した仙人を連れて、もと来た道を戻りました。
旧伊達郡役所の交差点を左折し、国見町藤田へ北上しました。
朝来た時に、桑折(こおり)で小坂峠からの三角形の斜辺で飯坂温泉への県道に合流しましたが、合流した交差点を仙人に尋ねると、覚えていないと言いました。
私のリトルカブを追いかけるのが精一杯で景色を見る余裕がないと言っていましたが、私とは常に100m近く間隔を空けて走っているのに、周りの景色をよく見ていないって、どうゆうこと?
仙人から答えは引き出せないので、合流地点で左手を左に伸ばして指差しながら通過しました。
実は仙人はバイク同士の挨拶である左手のヤエーができません。
スーパーカブが飲食店の出前に使われ、岡持を左手で持つことを前提に、左のクラッチレバーをなくして、片手運転対応のロータリー式の遠心クラッチにしたという設計思想があったと思います。
クラッチレバーない分だけヤエーがやりやすいカブです。
次の目的地は、藤田にある源九朗判官義経の像です。仙人からぼやきを聞きながらグーグルマップで検索をしていて見つけた場所です。
iPhoneで暗部に合わせて露出補正しなかったため、思いの外、逆光になってしまいました。
常用している画像編集ソフトGIMPのトーンカーブで不自然にならないぐらい明るさ補正しましたが、右側の石に彫られている「源九朗判官義経」の文字は認識できませんでした。失敗です。
面白い屋根の形をした施設のようでした。先に目的地がなければ立ち寄っても良いのですが、今回は仙人が興味を示そうともパスしました。
実は、今回立ち寄らなかったのですが、飯坂温泉の豪商旧堀切邸にも行く約束をしていたので、この時にでも、改めて立ち寄りたいと思います。
町の中を走っていると「義経まつり」というのぼり旗が方方の電柱に掲げられていました。気になって、その場でスマホで検索すると、3日前にまつりは終わっていました。
国見町が藤原泰衡軍と源頼朝軍の合戦の地だったことの由来で、26回目となる義経の行列が行われたようです。
カブで行けるところまで行って、歩いてきました。
何か、案内板らしき、何も書かれていない、消えてしまったのかという物が立っていました。
肝心な伝·弁慶の硯石が見当たりませんでした。場所を示すものがありませんでした。
ここで、また仙人のぼやきが始まりました。
「何で、この山はできたのだろう。調べていないだけで古墳かもしれない。」
終いには、「何で調べないのだ。」と言い出すこともあります。
他人が聞けば、全くお節介な話です。
そういうときは、「そんなに気になるのなら、自分でやれば。」と突き放します。
そこで話は終わりとなります。
義経が腰掛けた松ということで、現在の松が三代目のようだと仙人が案内板を見て言っていました。
仙人は義経が腰掛けた松に座ることなく、松を取り囲む建物の外のベンチに腰掛けていました。
よくぞ、800年以上前の松が残っていたと感心するばかりです。
さて、ここからが問題です。
時刻は、午前11時ちょうどです。
田村神社までどのルートを走るのか。先に食事を済ませるのか。大きな決断に迫られました。決断の結果が午後のスケジュールに大きく影響しました。
続きは次回ということで。
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