歴史・文化
2023年10月28日
院内銀山へ
2023.10.19
院内銀山異人館を後に、国道108号に入り、院内銀山跡を目指しました。
108号は、昨年の7月29日、3速リトルカブをボアアップして初めてのツーリングで、遅山仙人と鳥海山の北側の由利高原に向かう時に走りました。
院内銀山異人館でもらった案内図を参考に国道108号を走り、銀山入口に着きました。
左折してすぐの所に、院内銀山史跡案内板が設置されていました。
ここから、2万人以上住んでいたという院内の銀座通りが始まります。
2万人もの人々が暮らしているために、銀山への生活物資の搬入は必須です。
製錬された銀の搬出の監視はもちろんのこと、搬入される生活用品にも重さに応じて税をかけたというのです。
その役割を果たしたのが番所でした。
ドイツから招聘した鉱山技術者がここに住んでいました。その建物が洋館だったようです。
共同墓地が何か所にもあったようです。坑内の粉塵により若くして亡くなった坑夫たちの墓もあるのでしょうか。
銀座通りの突き当りに山神様である金山神社に着きました。スクールバスと乗用車2台が停まっていました。
参道を登っていくと、声がしました。
仙人が面白い狛犬だから撮れというので撮りました。獅子のような感じもしました。
声の主は、院内銀山異人館に社会科見学に来ていた小学生たちでした。見学を終えて、階段を降りていきました。
仙人は神社よりも、説明員のことが気になり、素性を尋ねたようです。行政OBで、今も大学で勉強している方のようでした。
銀山ではありますが、金も産出されたというのです。そのためかわかりませんが、金山神社となっていました。
11ヵ寺もあったという寺院は亡くなった人々の霊を慰め、金山神社は山神様を慰める役割を果たしていたのでしょうか。
昨年の11月11日に細倉マインパークに行った時に、坑内に山神様の分社があったことを思い出しました。
金山神社の登り口に天保年間の銀山の地図がありました。
原版は国立資料館に保存されている絵図です。家一軒一軒の世帯主の名前が書かれています。
現代版はカラー化したものです。
ここで、驚くべき事実が判明しました。
仙人は、この銀山に2万人も住み、大きな町を形作っていた事実を知りませんでした。
院内銀山異人館で見たビデオの内容が全く頭の中に入っていませんでした。
そればかりか、女性係員から御幸坑までしか車で行けないと言われたことも、全く聞いていなかったのです。
仙人を問い詰めました。
すると、「興味のないものは頭に入ってこない。」と言うのです。
ビデオを見始めた時に違和感を覚えていました。
ビデオの解説の腰を折るような言葉を発し、ビデオを注視しようとしないので、注意したのです。
仙人は、時々、話の腰を折り、別の話題に切り替えようとすることがあります。
これは、自分には興味のない話は頭に入らないので、話の腰を折るということだったのです。
仙人は歴史的事実よりも人物論が好きです。
このため、院内銀山異人館では、江戸時代の医師が残したカルテについては、興味深く見ていました。
頭脳明晰、高学歴の仙人とは長い付き合いですが、改めて、仙人の脳の新たな個性を発見しました。
女性係員が言った御幸坑の駐車場には、先程のスクールバスと乗用車2台が停めてありました。
小学生たちが説明を受けていました。
付添の先生と思われる方から、山形(市)からバイクで来たのですかと驚かれました。
大型バイクならまだしも、スーパーカブで、ここまで来るとは想像できなかったのでしょう。
明治天皇が東北巡幸のときに、この坑口に立ち寄ったことから御幸坑と呼ばれているようです。坑口は閉じられていて中に入ることはできませんでした。
尾花沢市にある延沢銀山は坑内を見ることができますが、関係資料を展示している博物館的施設はありません。
それに対して、院内銀山は坑内を見ることはできませんが、その様子を院内銀山異人館の展示資料で垣間見ることができます。
対象的な2つの銀山ですが、その違いを仙人の頭の中で整理できたのか、わかりません。
銀山から帰っていった小学生を追いかけるようにして、私達も国道108号を国道13号に向かって走り出しました。
つづく
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2023年10月27日
83歳の友人の推薦で院内へ
2023.10.19
前日、83歳になる友人から秋田県湯沢市にある院内銀山を推薦されました。
本当は、福島市飯坂温泉にある豪農の旧堀切邸か宮城県岩沼市の竹駒神社へ行こうと考えていました。
友人からの推薦は院内銀山と横手市の増田の古い町並みでしたが、夜明けが遅く、日没の早い今の時期では遅山仙人とのツーリングでは増田まで足を伸ばすのは断念しました。
仙人の隠れ家に向かう途中、朝焼けでした。後半天気が崩れる可能性があります。
仙人の隠れ家を午前6時に出発し、山形空港の西側を北上し、東根市長瀞、村山市名取、最上川隼橋を渡り、大石田町新山寺、蕎麦の品種で有名な来迎寺で国道347号に入り、尾花沢市で国道13号に合流し、県境を目指しました。
舟形町の先から、放射冷却による雲海の中に入ってしまいました。
湿度が高く、ヘルメットのシェードが水浸しになって、走るのが不都合になるほどでした。
県境の雄勝トンネルに着いたのは8時40分でした。
最初の目的地である院内銀山異人館の開館が9時なので、仙人の隠れ家から3時間という見積もりを立てて、出発時間を決めました。
開館5分前の8時55分には到着しました。院内銀山異人館はJR院内駅に併設されていました。
開館時間とともに入場料320円を払い入館しました。
明治時代にドイツから招聘した鉱山技術者が住んでいた鉱山入口の住居の建物を模して作られたので、異人館と名前が付いているそうです。
1階が受付で2階が院内銀山の資料が展示されていました。
係の女性から、「(1階に)院内銀山のビデオがあるので見ますか。これから小学生が来るけど、ビデオは見ないです。」と誘いを受けたので、見ることにしました。
小学生が2階へ上がってからのビデオ上映になりました。
院内銀山の歴史が上手くまとめられていました。
ビデオ上映の後、2階に上がっていきました。2階は撮影禁止だったので、写真は撮ってきませんでした。
2階では、学校側が準備した説明員が子どもたち相手に展示資料の解説をしていました。
説明員が小学生相手に「恋愛したことのある人?」と聞いていました。
最初は、質問の意味がわかりませんでした。
ビデオの中にもありましたが、院内銀山には2万人以上の人々が暮らし、鉱山内の粉塵による病気で30歳ぐらいで多くの若者が命を落としたといいます。
このため、銀山には寺院が11ヵ寺もあったそうです。
江戸時代の医者のカルテが残っていました。
毎年銀生産量日本一を誇っていた院内銀山も昭和29年に閉山し、350年にも及ぶ歴史にピリオド打つ日が来ることになりました。
小学生が帰った後、展示資料をゆっくり見て回りました。
1階の係員に銀山跡に行くと言うと、御幸抗までしか、車で行けないと教えてくれました。
同じ建物の北側にある院内駅を覗いてから鉱山跡に向かいました。
つづく
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2023年10月26日
狐越街道から延沢銀山、院内銀山へ
2023.10.18
寒河江市慈恩寺八千代公園でのリベンジ宴会の翌日、83歳の友人から電話が入りました。
自称「街道旅人」とする友人は、乗り鉄で、80を過ぎても青春18きっぷで九州まで行ってしまう強者です。
その友人が、自身の研究テーマである街道のうち、狐越街道の資料がまとまったのでプレゼントしたいというものでした。
早速、午後からリトルカブでご自宅に伺いました。
狐越街道は、山形市から白鷹山の北の麓を通り、白鷹町に抜ける街道です。
友人の資料はA4で14ページ、A3の地図が1ページでした。
私の母の実家は、白鷹山の北の麓、白鷹町の登山口、山辺町畑谷の嶽原(たけばら)にありました。
狐越街道に縁のある私へのプレゼントでした。
友人から、もう一つプレゼントがありました。
遅山仙人と延沢銀山(銀山温泉)に行ったことを話したところ、友人のお庭だった延沢銀山の資料を見せてもらいました。
友人の父親の実家に残っていた延沢銀山に関する古文書を尾花沢市役所に寄贈したところ、尾花沢市が延沢銀山に関する資料にまとめたとのこと。
同時に銀鉱石も見せてもらいました。
藩の厳しい監視をくぐり抜けて、延沢銀山から沢山の銀が背負われて、方方に散らばったとのこと。
一つは、河北町谷地から、特産の紅花にまぎれて、船で最上川を下るもの、あるものは、新庄市の本合海から最上川を下るもの、そして、あるものは奥羽山脈を越えて仙台に向かうもの。
7つか8つのルートがあったそうです。
羽州街道を研究している友人から秋田県の院内銀山を強く推薦されました。
実は、この翌日、仙人と福島市にツーリングに行く予定をしていたのです。ガソリンは、上山の24時間営業のスタンドで詰める段取りでした。
急遽、友人宅から仙人に電話をして、行き先を秋田県湯沢市の院内に変更し、今日のうちにガソリンを詰めておくように伝えました。
そして、もう一つ。
友人は、今年の夏、青春18きっぷで広島行きを断念しましたが、来春、リベンジするとのことでした。夏は外国人が多く、3、4月は外国人が少ないタイミングを狙うとのこと。
私は4月に奈良に行ってみたいと言うと、近鉄のフリーきっぷを使うと便利だとアドバイスをいただきました。
また、私への推薦ルートとして、飯田線を使った一泊二日のコースです。外国人も多く、18きっぷを使う人が感動するコースとのことでした。
友人に礼を伝え、友人宅を離れ、スタンドに立ち寄り、帰宅後、明日の院内行きの準備を始めました。
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2023年10月08日
1時間20分説明を受けた甲冑堂
2023.9.26
(地名等の色字をクリックするとグーグルマップが別ページで展開します)
前回、義経腰掛松を見学し、仙人リクエストの白石市にある田村神社甲冑堂まで、どう行くのか、田村神社に行ってから昼食とするのか、それとも、先に昼食を済ませてから田村神社に行くのか、決断するところで終わりました。
当初は、国道の旧道を走り、どうしても一部区間のみ国道を走ることして、田村神社に寄ってから白石市街地で昼食を考えていました。
本当は、片側1車線の交通量の多い4号を仙人に走らせたくありませんでした。仙人は片側2車線だと勘違いしていました。
幸いにも、国道に入るとすぐに登坂車線があり、しばらくの距離をゆっくり走ることができました。
田村神社のすぐ手前にある、国道沿いの定食屋東食堂に入りました。時刻は11時20分でした。駐車場にたくさん車が止まっていましたが、店内には客はいませんでした。
この駐車場は国道の付帯駐車場のようで、近くに沼があるので、釣り客の車かもしれません。
オーダーしたのはタンパク質不足の仙人のことを考えてトンカツ定食でした。仙人にも同じものを薦めました。
肉の厚みがかなりありました。味は普通でした。
仙人も厚みのあるトンカツに満足して、店を出ました。
田村神社に到着したのは12時30分でした。
縁起によると坂上田村麻呂を祀っているため田村神社となっているようですが、神社の建物としては明治になってからの建物で、それも放火で失火しているようです。
仙人が電話でぼやいていたように、聖徳太子の六角形のような建物です。
「拝観ご希望の方は社務所へ申し出てください。宮司」とあったので、社務所を伺いました。
すると、年配の女性が対応してくれました。拝観希望であることと御朱印を依頼しました。
拝観料と御朱印の初穂料を合わせて千円納めると、御朱印帳はこの時代だから?預からないと言われ、社務所内で神社設立の説明があった後、日付を入れた書き置きの御朱印が手渡されました。
宮司は不在だったようで、この後は、全て、この女性が案内してくれました。
この神社が建立される前にも、神社の裏山に坂上田村麻呂を祀った祠があって、地元の人が大切に信仰していたそうです。
田村神社には菊の御紋が描かれていますが、坂上田村麻呂の末裔という方が訪ねてこられ、お参りの時に菊の御紋のついた着物を着たことから、菊の御紋のいわれがわかったそうです。田村麻呂一族は天皇家から菊の御紋を拝領されてきたそうです。
そして、佐藤兄弟の妻たちの像(明治の失火で消失?)が以前からあったことから、松尾芭蕉が奥の細道の道中で立ち寄ったようです。
芭蕉が佐藤兄弟の妻たちのことを記したものがあったようなのですが、芭蕉たちが立ち寄ったという記録はなかったことと、この地を呼んだ俳句は残っていなかったために、芭蕉は来なかったとされたそうです。
佐藤兄弟の戦死を悲しんだ義母を見た、二人の妻たちが兄弟の甲冑を着て義母を慰めたという逸話を元に像が作られ、火事で焼失後にクスノキを彫刻刀だけで彫り上げ、顔料で色付けしたとのこと。
像を安置する建物を東北大学の教授に依頼したところ、教授が六角堂を作ろうと思っていたときの依頼だったので、そのまま、六角堂を建築したとのこと。
佐藤兄弟の妻たちの逸話は、戦前の教科書に載ったり、歌になったりしたために、全国に知られるようになったこと。
地元、斎川で取れる水性生物ヘビトンボを子供の疳の虫の薬として売り始め、斎川の水で飲まないと薬効がないという触れ込みで、孫太郎虫としてブランド化していったこと。
これらの話を、延々と聞くことになります。気がついたら、14時ちょっと前になっていました。
何とか、話の腰を折らないタイミングで、これから山形に帰らなければならないとして、切り上げさせたいただきました。
社務所で、事前に頂いた資料は、今どき珍しいB4版のコピー用紙に両面刷りで4面ありました。下記に添付しておきます。
最初から、田村神社に入り、正午の時点で昼食だと言って引き上げれば良かったのです。失敗です。
予定では、昼食後、もう一ヶ所立ち寄る予定でしたが、時間がありませんでした。
田村神社からは、旧道を北上し、斎川の土手を走り、白石市街地を目指しました。
広域農道が右にループする手前左側から旧羽前街道に入り、猿鼻宿通過諸大名の名前が掲げられている小屋でコーヒータイムを取りました。
さすがの仙人も田村神社の奥様には驚いていました。宮司は92歳で、後継者はいないそうです。
この羽前街道を利用した大名の名前が書いてありました。
時々話題になりますが、旧羽州街道の小坂峠の福島県側は急な斜面になっており、籠かきのどちらかがコケると、籠の中に入っている殿様が転げ落ちるのではないかと笑い話になります。
馬も利用したのでしょうが、時代劇に出てくる馬は、サラブレッドなどの大きな馬であり、元々、日本には小さな馬しかいなかったので、戦の時に騎馬武者なんて、どれだけいたのか、疑わしい限りです。
二人で、バカ話を繰り広げて、コーヒータイムは終わりました。
広域農道に戻り、国道286号に入り、笹谷峠を目指しました。
笹谷峠を越えたのは16時25分でした。
仙人によれば、その間には、ゆかりの地が少なく、逃げ延びたという伝説のもとに、他県には、ゆかりの地があるとのこと。
それはそれとして、最終的には、平泉までは泊まりでツーリングに行くということで話はまとまり、解散しました。
仙人リクエストのツーリングは終了しました。
明日27日は、仙人が大学病院で血液検査を受ける日。
即入院と言われる可能性に怯えながらもツーリングにでかけました。他人(遠縁の親戚)事とは言いながらも、結果が楽しみです。
おしまい。
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2023年10月07日
義経ゆかりの地へ
2023.9.26
遅山仙人リクエストの瑠璃光山 医王寺を後にし、来た道の福島交通飯坂線沿いの県道を戻りました。
前回、8月20日に飯坂温泉の食堂で朝食を取った時に、仙人が飯坂温泉駅を見たいと言っていたことを思い出して、立ち寄ることにしました。
今回は、地図は添付しません。色の着いた地名をクリックすると別ページでグーグルマップが展開しますので、ご参照ください。
駐輪場は駅の南側にあります。
駅の1階フロアーにはコンビニと農産物の産直がありました。
ホームは階下にありましたが、仙人は1階を見ただけで十分でした。
満足した仙人を連れて、もと来た道を戻りました。
旧伊達郡役所の交差点を左折し、国見町藤田へ北上しました。
朝来た時に、桑折(こおり)で小坂峠からの三角形の斜辺で飯坂温泉への県道に合流しましたが、合流した交差点を仙人に尋ねると、覚えていないと言いました。
私のリトルカブを追いかけるのが精一杯で景色を見る余裕がないと言っていましたが、私とは常に100m近く間隔を空けて走っているのに、周りの景色をよく見ていないって、どうゆうこと?
仙人から答えは引き出せないので、合流地点で左手を左に伸ばして指差しながら通過しました。
実は仙人はバイク同士の挨拶である左手のヤエーができません。
スーパーカブが飲食店の出前に使われ、岡持を左手で持つことを前提に、左のクラッチレバーをなくして、片手運転対応のロータリー式の遠心クラッチにしたという設計思想があったと思います。
クラッチレバーない分だけヤエーがやりやすいカブです。
次の目的地は、藤田にある源九朗判官義経の像です。仙人からぼやきを聞きながらグーグルマップで検索をしていて見つけた場所です。
iPhoneで暗部に合わせて露出補正しなかったため、思いの外、逆光になってしまいました。
常用している画像編集ソフトGIMPのトーンカーブで不自然にならないぐらい明るさ補正しましたが、右側の石に彫られている「源九朗判官義経」の文字は認識できませんでした。失敗です。
面白い屋根の形をした施設のようでした。先に目的地がなければ立ち寄っても良いのですが、今回は仙人が興味を示そうともパスしました。
実は、今回立ち寄らなかったのですが、飯坂温泉の豪商旧堀切邸にも行く約束をしていたので、この時にでも、改めて立ち寄りたいと思います。
町の中を走っていると「義経まつり」というのぼり旗が方方の電柱に掲げられていました。気になって、その場でスマホで検索すると、3日前にまつりは終わっていました。
国見町が藤原泰衡軍と源頼朝軍の合戦の地だったことの由来で、26回目となる義経の行列が行われたようです。
カブで行けるところまで行って、歩いてきました。
何か、案内板らしき、何も書かれていない、消えてしまったのかという物が立っていました。
肝心な伝·弁慶の硯石が見当たりませんでした。場所を示すものがありませんでした。
ここで、また仙人のぼやきが始まりました。
「何で、この山はできたのだろう。調べていないだけで古墳かもしれない。」
終いには、「何で調べないのだ。」と言い出すこともあります。
他人が聞けば、全くお節介な話です。
そういうときは、「そんなに気になるのなら、自分でやれば。」と突き放します。
そこで話は終わりとなります。
義経が腰掛けた松ということで、現在の松が三代目のようだと仙人が案内板を見て言っていました。
仙人は義経が腰掛けた松に座ることなく、松を取り囲む建物の外のベンチに腰掛けていました。
よくぞ、800年以上前の松が残っていたと感心するばかりです。
さて、ここからが問題です。
時刻は、午前11時ちょうどです。
田村神社までどのルートを走るのか。先に食事を済ませるのか。大きな決断に迫られました。決断の結果が午後のスケジュールに大きく影響しました。
続きは次回ということで。
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