墓参りと栗拾い 2019.10.5ポツンと一軒家 2019.10.14

2019年10月16日

市川團十郎がお忍びで行かない寺 2019.10.14

マユツバ者の遅山仙人が歌舞伎役者や俳優がお忍びでお参りにくる寺があるので、行ったみたいと言い出したのは「沢庵和尚はイスラム原理主義者か? 2019.9.20」で上山市の春雨庵に行ったときです。

いつものように、情報は断片的で、寒河江の両所というところにある寺だというのです。春雨庵で聞いた時点で河北町にある真光寺であることは察しがつきました。

台風19号が通過した日の翌日10月14日、午後から雨模様の予報ではありましたが、仙人を連れ出して、お忍びの寺院をめざしました。

行く途中、なぜ、この寺院のことを知ったのか聞き出しました。信号機で止まるごとに、一回、一回、事情聴取をしていくと、だんだん核心に近づいてきました。いつも、この調子です。

社会科の先生の研究会でこの寺院に来て、他の先生たちとともに住職から話を聞いたというのです。しかし、場所は覚えておらず、さらに住職の話が断片的です。一体、何を勉強したのかと、疑わしくなってきました。

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朝8時、真光寺の庫裡(くり、住職の住まい)にお邪魔して、仙人が住職に確かめたところ、この寺院で間違いありませんでした。ヒットしました。

仙人が社会科の研究会でお聞きしたのは先代のご住職でした。数年前にお亡くなりになったそうです。

現在のご住職で、先代の息子さんである佐藤さんから本堂や事務室で詳しく案内していただきました。

この寺院と歌舞伎役者がどんな関係があるのか。

時を遡ること江戸時代、正徳4年(1714年)、江戸城大奥・江島と歌舞伎俳優・生島新五郎が密会したことで多くの人々が処罰された江島生島事件が発生します。江島も生島も流罪となり、江島の父は切腹、生島の一座は取り潰しとなります。

生島が所有していた物は、ほとんど残っておらず、歴史研究により、江戸深川あたりに一つだけ残っているものがあるそうです。そんな中、この寺院に生島の仏像三体と仏像を納める厨子(ずし)があることがわかります。

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本尊の宮殿の左側にあるのが生島の名がある厨子と仏像です。先代のご住職はかなり熱心に調査研究されたそうですが、なぜ、この仏像と厨子がこの寺院にあるのか、わからなかったそうです。

今のご住職の仮説では、山形内陸部に広大な土地を所有していた豪商で両替商をしていた和田家が借金の形に大名から預かった仏像を方々の寺院に寄進しているので、生島の仏像がたまたま、この寺に寄進されたのではないかということです。

ただ、生島の手から離れて、誰の手に渡って行ったかは、わからないままです。

和田家は新庄戸沢藩などの大名に融通するも不良債権が拡大し、没落していったそうです。

これらのことが縁で、市川團十郎の成田屋がこの寺に生島新五郎の供養塔を建立したのでした。

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本堂の屋根の改修時に寄付をいただいた以降は、成田屋とは関係がないそうです。

ご住職の佐藤さんは突然の訪問にも嫌な顔もせずに、生島のこと以外にも、いろいろな話をしていただきました。特に私も仙人も初耳だったのは、出羽三山信仰の内、湯殿山は一番新しい信仰地で、本来は葉山が三山の一つだそうです。

葉山信仰を管理する本山の堕落により没落して、湯殿山に取って代わられたというのです。

仙人がお忍びで歌舞伎役者や俳優たちがお参りに来ると言うのは、やはりマユツバでした。でも、仙人は歌舞伎役者や俳優たちがお忍びで来るだろうと言ってはばかりません。事実と違うことを言うと名誉棄損になることを仙人には理解できません。マユツバ者の真骨頂です。

仙人は前代の住職の話が聞きたかったと残念がっていましたが、この寺院来られたことを喜んでいました。来たくてしょうがなかったようです。良い冥途の土産ができたようです。

ご住職にお礼をし、真光寺を離れました。この後、この地が両所と言われる由縁である、近所の両所神社に立ち寄った後、ポツンと一軒家のロケ地になったところをめざしました。


himajintaro at 07:00│Comments(0)歴史・文化 | よもやま話

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