2019年10月

2019年10月20日

ハンドルカバー付けました。

これから寒くなっていくので、ハンドルカバーを取り付けました。

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ツーリングの長時間運転では指先の冷えは尋常ではないのです。1時間ごとに休憩して、クランクカバーを直接触って暖を取っています。

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今までは我慢して12月初め頃まで乗っていましたが、
寄る年波には勝てず、遂に付けることにしました。袋状の物も考えましたが、とっさの時に手を出しにくいということと、真冬には乗らないので、ナックルタイプにしました。

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タコメーターが干渉しましたが、何とか付け直しで対応できました。

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2019年10月19日

本丸ってどこ? 2019.10.14

山神神社で遅山仙人の素性がバレた後、天気がさらに怪しくなり、昼食がとれる場所を探したら、近くに蕎麦屋さんがあることがわかり、急ぎました。

午前11時30分には店に入るツーリングの鉄則より10分ほど遅れて到着したのは、本丸東という蕎麦屋さんでした。

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お客さんは誰もいませんでした。この日は肌寒く、店の中はストーブが炊いていました。

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山形の蕎麦文化の特徴であるイカゲソの天ぷらと1.2倍盛りの蕎麦のセットで1,130円。リズーナブル感に魅かれて、下足天板そばを注文しました。もちろん、仙人も同じものを注文しました。一度、注文に失敗してからは、必ず、私と同じものを注文するようになりました。

注文した後、この店の名前は何だっけと始まりました。毎日の日記に書くので、記録しておく必要があります。本丸東であることを伝え、ところで本丸である城はどこかと返しました。

すると、この蕎麦屋さんの西に東根小学校があり、そこが城だというのです。さすがは、世は世であれば女流直木賞作家の亭主です。

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蕎麦が茹で上がる間、変なものを取り出しました。

誰かにもらったベトナム産タバコです。写真がグロテスクで、やせ細った男性がタバコを吸いながら、胸を押さえています。こんな写真を見せられたら、とても、タバコが吸えなくなると言いつつ、ポツンと一軒家では、しっかり、パイプタバコを吸っていました。

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蕎麦はちょっと硬めの田舎そばです。

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ツーリングの鉄則を守り、急いで蕎麦屋さんにきましたが、この時間帯は私たちだけでした。

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トイレまでの廊下にアンパンマンの人形がたくさん飾ってありました。

山形の中学校の先生でアンパンマン研究家がいます。本も出しています。生徒からアンパンマン先生と呼ばれているようです。山仲間で中学校の先生からバングラデシュの話をして欲しいと言われ、とある中学校にお邪魔することがありました。

学年全員を対象とする国際理科教育の一環としてお呼びいただいたのですが、その学校にアンパンマン先生がいることは知っていました。話の途中で、アンパンマン先生はいますかとたずねたところ、返事をしてくれました。同じ学年の担任だったようです。

東根蕎麦街道01

会計後、店の人に玄関先まで見送っていただき、仙人が蕎麦街道のチラシを見つけました。東根も今月から蕎麦街道を名乗るようになりました。

お隣、村山市は秘密のケンミンshowで次年子(じねんご)の蕎麦が紹介されて全国区になり、次年子以外の店舗で蕎麦街道を作っています。周辺の大石田町や尾花沢市にも蕎麦街道があり、山形の蕎麦の激戦区となっています。

今回、東根市も蕎麦合戦に参戦したようです。

東根蕎麦街道02

蕎麦屋さんを出るときには雨は本降りとなりました。カッパを着て、一路山形に戻ることにしました。旧国道13号を一直線に南下し、馬見ヶ崎川を渡る直前にある渡辺だんご屋の暖簾が下がったままなので、急遽、団子を買って行くことにしました。

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奥羽本線(山形新幹線)のガード下にある渡辺だんご屋は、土日は開店前から並ぶ人気店です。私も何度かポールポジションを取ったことがあります。

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「出川哲朗の充電させてもらえませんか?」で、さんまがゲストになった大石田町の最上川千本だんごが全国区になりましたが、私は渡辺だんご屋の団子の方がコシがあって好きです。

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運よく、午後1時30分でも団子が残っていました。家族への土産も買うことができ、半日でしたが中身の濃い充実したツーリングになりました。



2019年10月18日

世が世であれば女流直木賞作家の亭主 2019.10.14

ポツンと一軒家から下山して、元来た林道を戻りました。

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舗装道路を砂利道の境付近に山神神社がありました。一見、神社らしからぬ山小屋風で、よく見ると屋根の形が神社かなと思える建物です。

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山の神であれば女性の神様でしょうが、ご神体は、男根の道祖神のようでした。私よりも遅れてきた遅山仙人は中の様子をうかがって、私が撮った写真には無いものを見つけたようです。

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写真の右側に円盤に鉄の矢が刺さった物を見つけたというのです。私は気が付きませんでした。

仙人は今日まで独身を貫き、親の介護に疲れ、女性には興味がないと言い切っていました。ですが、マユツバ者の仙人です。そう簡単には信用できません。

仙人は東京で大学を卒業した後、山形には帰りたくないので東京で遊んでいました。当時、仙人には彼女がいて、文学好きの彼女に作文指導をしていました。

ところが、長男であった仙人は両親から執拗に帰郷を促され、やむなく、山形に帰ります。帰郷して、直ぐに職に就かず、ぷー太郎状態だったため、山仲間から仙人と言われます。

そんな中、彼女の両親が仙人の意志を確認するため仙人宅を訪ねます。しかし、仙人の両親はこれを拒みます。それがきっかけで、仙人からのラブレターも彼女の元に届かなくなってしまいます。

彼女の希望は果たされることなく、別の男性と結婚することになります。この女性は、後日、直木賞作家になります。

両親の病気、介護のため教職を定年前に離れ、教員OGで福祉関係のNPO法人代表理事の甘い言葉に誘われ、一時期、福祉の仕事に就きますが、福祉現場の過酷さに困惑します。

父親の死と母親の介護に疲れ、母親の死後、名実ともにヒッキー仙人になってしまいました。

山仲間で私のバイクの師匠の死がきっかけで、シャバの空気を吸えるようになり、ツーリングにより開眼しました。

今でこそ、仙人のような暮らしをしていますが、世が世であれば直木賞作家の亭主として、もしかしたら、ゴーストライターとして活躍していたかもしれません。

運命なのか、神のいたずらなのか、私にはわかりません。


himajintaro at 21:15|PermalinkComments(0)歴史・文化 | よもやま話

2019年10月17日

ポツンと一軒家 2019.10.14

市川團十郎がお忍びで行かない寺を後にし、次の行先を遅山仙人には伏せて東へとリトルカブを走らせました。行先は「ポツンと一軒家」のロケ地になった所です。

実は、仙人は地上デジタル放送を見ることができないのです。BSアンテナは繋がっているのでBS放送は見ているようです。2千円もしないVHSのアンテナを繋げばいいことなのですが、仙人には、それができないのです。BS放送しか見ていないことがわかっていたので、目的地に着くまで黙っていました。

今年の9月8日に放送された山形の「ポツンと一軒家」は、放送時間残り10分のところで偶然に見ることになりました。一軒家からの眺望を見て、沼と山から場所を特定しました。

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甑岳(こしきだけ)の南側の登山口までの林道を上って行きました。

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台風19号による風のためでしょうか、杉の葉、枝が路面を覆っていました。

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林道の途中に、登山道の入り口までの距離を表す標柱が立っていました。

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相変わらず、林道とワインディングロードには弱い仙人は、かなり遅れてくるので、いつも走行モデルになってくれます。

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ここからは、地図にない道路です。右側の林道が元々の道路でしたが、途中、杉が倒れて通行不能になっていました。(写真下)

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下の赤い道が新しく作られた道路です。ポツンと一軒家にお住まいの方が自ら造成工事を行った道のようです。ここまでは路面が荒れていましたが、ここから上は勾配がキツイところもありましたが、路面はきれいでした。

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甑岳にハチカ沢という南側の登山コースがあるとわかったのは、「ポツンと一軒家」を見たからなのです。以前は、村山市楯岡から登っていました。

仙人が社会人の登山サークルの山行に初めて参加したのが、この甑岳でした。初めての登山ということでしたが、仙人は確か、登山口に遅れて合流したはずです。ここから、遅山(おくれやま)と呼ばれる片鱗を見せていたのです。

初心者にも関わらず、大きなリックにたくさん荷物を詰め込んだものの、途中でバテて、デビュー戦は悲惨でした。大きなリックから出てきたのは、自宅の仏壇にお供えしていた大きなメロンがたくさん出てきました。この話が、今も語り草になっています。

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登山口から、さらに上り詰めると予想通り「ポツンと一軒家」のロケ地でした。

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番組の通りの場所でした。甑岳までの登山道を整備する仲間が集まってくる様子を番組で紹介していました。

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この風景で、この場所が分かったのです。本当なら、月山、葉山、朝日連峰が見えるはずでした。あいにくの天気でしたが、この眺望に仙人は満足していました。ここで、ネタ晴らしをしました。

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この眺望に感激しながら、コーヒータイムとしました。

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コーヒーで一息つけていると、先ほどの登山口に止めてあった車の所有者が現れました。一軒家のオーナーに会いたいと宮城県亘理町から来たそうです。以前、甑岳に登った帰りに立ち寄り、キノコ栽培の話をしたそうですが、今回、もっと詳しい話がしたくて、宮城県から来られたとのことでした。

オーナー不在のようなので車に戻られました。そしたら、オーナー夫妻の奥さんが現れて、私たちにテレビを見て来たのですかと話をかけてくれましたが、宮城県から会いに来た人がいるので、その人を探すように伝えました。

この辺りはキノコ園になっているようでした。

本当はオーナーさんと話をしたかったところですが、家の中で宮城県の人と話をされていたので、仙人が窓越しに奥さんに挨拶をして、昼食場所へと下山することにしました。


2019年10月16日

市川團十郎がお忍びで行かない寺 2019.10.14

マユツバ者の遅山仙人が歌舞伎役者や俳優がお忍びでお参りにくる寺があるので、行ったみたいと言い出したのは「沢庵和尚はイスラム原理主義者か? 2019.9.20」で上山市の春雨庵に行ったときです。

いつものように、情報は断片的で、寒河江の両所というところにある寺だというのです。春雨庵で聞いた時点で河北町にある真光寺であることは察しがつきました。

台風19号が通過した日の翌日10月14日、午後から雨模様の予報ではありましたが、仙人を連れ出して、お忍びの寺院をめざしました。

行く途中、なぜ、この寺院のことを知ったのか聞き出しました。信号機で止まるごとに、一回、一回、事情聴取をしていくと、だんだん核心に近づいてきました。いつも、この調子です。

社会科の先生の研究会でこの寺院に来て、他の先生たちとともに住職から話を聞いたというのです。しかし、場所は覚えておらず、さらに住職の話が断片的です。一体、何を勉強したのかと、疑わしくなってきました。

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朝8時、真光寺の庫裡(くり、住職の住まい)にお邪魔して、仙人が住職に確かめたところ、この寺院で間違いありませんでした。ヒットしました。

仙人が社会科の研究会でお聞きしたのは先代のご住職でした。数年前にお亡くなりになったそうです。

現在のご住職で、先代の息子さんである佐藤さんから本堂や事務室で詳しく案内していただきました。

この寺院と歌舞伎役者がどんな関係があるのか。

時を遡ること江戸時代、正徳4年(1714年)、江戸城大奥・江島と歌舞伎俳優・生島新五郎が密会したことで多くの人々が処罰された江島生島事件が発生します。江島も生島も流罪となり、江島の父は切腹、生島の一座は取り潰しとなります。

生島が所有していた物は、ほとんど残っておらず、歴史研究により、江戸深川あたりに一つだけ残っているものがあるそうです。そんな中、この寺院に生島の仏像三体と仏像を納める厨子(ずし)があることがわかります。

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本尊の宮殿の左側にあるのが生島の名がある厨子と仏像です。先代のご住職はかなり熱心に調査研究されたそうですが、なぜ、この仏像と厨子がこの寺院にあるのか、わからなかったそうです。

今のご住職の仮説では、山形内陸部に広大な土地を所有していた豪商で両替商をしていた和田家が借金の形に大名から預かった仏像を方々の寺院に寄進しているので、生島の仏像がたまたま、この寺に寄進されたのではないかということです。

ただ、生島の手から離れて、誰の手に渡って行ったかは、わからないままです。

和田家は新庄戸沢藩などの大名に融通するも不良債権が拡大し、没落していったそうです。

これらのことが縁で、市川團十郎の成田屋がこの寺に生島新五郎の供養塔を建立したのでした。

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本堂の屋根の改修時に寄付をいただいた以降は、成田屋とは関係がないそうです。

ご住職の佐藤さんは突然の訪問にも嫌な顔もせずに、生島のこと以外にも、いろいろな話をしていただきました。特に私も仙人も初耳だったのは、出羽三山信仰の内、湯殿山は一番新しい信仰地で、本来は葉山が三山の一つだそうです。

葉山信仰を管理する本山の堕落により没落して、湯殿山に取って代わられたというのです。

仙人がお忍びで歌舞伎役者や俳優たちがお参りに来ると言うのは、やはりマユツバでした。でも、仙人は歌舞伎役者や俳優たちがお忍びで来るだろうと言ってはばかりません。事実と違うことを言うと名誉棄損になることを仙人には理解できません。マユツバ者の真骨頂です。

仙人は前代の住職の話が聞きたかったと残念がっていましたが、この寺院来られたことを喜んでいました。来たくてしょうがなかったようです。良い冥途の土産ができたようです。

ご住職にお礼をし、真光寺を離れました。この後、この地が両所と言われる由縁である、近所の両所神社に立ち寄った後、ポツンと一軒家のロケ地になったところをめざしました。


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